逆再生クイズ解説
この文章は何?
2025年度理研和光地区一般公開における濱崎グループの展示『「時間を反転」できるでしょうか?』内で放映された「逆再生クイズ」の背景を説明する文章です。 読者としては高校物理修了程度を想定していますが、実際の要求レベルは不明です。
ゆらぎの熱力学について
熱とは何でしょうか? 物理学において熱とは「コントロールできない自由度とやり取りされるエネルギー」として捉えることができます。 反対にコントロールされたやりとりが「仕事」です。 たとえば、お手玉が地面に落ちた時、それまで持っていた運動エネルギーは内部での摩擦や、地面への衝撃によって熱に変わります。
ゆらぎの熱力学 (stochastic thermodynamics) と呼ばれる最先端の熱力学理論では、着目する自由度(例えばお手玉の位置)と、それ以外の自由度を分離し、後者のうちコントロールの効かないものは全て平衡状態にあると仮定します。すると、着目する自由度の時間発展は、確率的ながらも、数学的には素性の知れたものに限定されます。具体的には、時刻 $t$ での位置 $X(t)$ は、次のようなルールに従うと考えられます: \[ m\frac{d^2X}{dt^2} = -\gamma\frac{dX}{dt} + F(X(t)) + \sqrt{2\gamma k_{\mathrm{B}}T}\xi(t) . \] 右辺第二項はニュートンの運動方程式と同じ形をしていますね。第一項は、速度と逆向きに働く摩擦力を表します。最後の項が確率的な項で、ランダムな外力を表します。摩擦とランダム力は互いに「熱」と関係するわけですが、実際二つの項の係数は摩擦係数 $\gamma$ と温度 $T$ によって与えられます。これは揺動散逸関係と呼ばれる一般的な現象で、周りが平衡状態であるという仮定に相当します。 $\xi(t)$ は白色ガウシアンノイズと呼ばれる量で、確率過程という少し高級な数学によって与えられます。 この方程式はランジュヴァン方程式と呼ばれ、ゆらぎの熱力学の基礎方程式のうちの一つとなっています。
なお、実際にはお手玉のような大きな物体ではノイズの効果は大きくありません。 一方、例えば細胞の中のタンパク質の動きを考える際には、ノイズは重要な役割を果たします。
ゆらぎの定理と逆再生
ノイズの影響を受けた時間発展、つまり $X(t)$ のある時刻から他の時刻までの値を集めた物を $\hat{\Gamma}$ と書くことにしましょう(実際には上述の方程式を考える場合、$X$ だけでなく $dX/dt$ の値も集める必要があります)。 ノイズはランダムですから、$\hat{\Gamma}$ が取りうる値(の組)はいろいろとありえます。 とはいえ、外力を受けている以上、ある程度偏りはあります。 $\hat{\Gamma}$ がある値 $\Gamma$ である確率を $P(\Gamma)$ と書くことにすれば、外力の動きにちゃんとついていくような $\Gamma$ では $P(\Gamma)$ が大きくなり、逆に全然従わない場合小さくなります。 外力は時間によって変化してもよいので、逆向きに動かした場合の確率を $P^\dagger(\Gamma)$ と書くことにします。さらに $\Gamma$ の値を逆向きにした、つまり「逆再生」したものを $\Gamma^\dagger$ と書きます。 すると、熱力学とランダムなダイナミクスが次のように結びつきます: \[ \Sigma(\Gamma)=\ln\frac{P(\Gamma)}{P^\dagger(\Gamma^\dagger)}. \] ここで、$\Sigma(\Gamma)$ は「エントロピー生成」と呼ばれる量です。 いわゆるエントロピー増大則は、エントロピー生成がいつでも非負であることを主張します。 実際、$\Sigma(\Gamma)$ の期待値を計算すると非負になることが証明できます。この関係式は「ゆらぎの定理」と呼ばれる一連の関係式の一つで、特に詳細ゆらぎの定理と呼ばれることがあります。
問題:$f(x),g(x)\geq 0$, $\int_a^bf(x)dx=\int_a^bg(x)dx=1$ のとき、$\int_a^b f(x)\ln(f(x)/g(x))dx \geq 0$ を示せ。
ヒント:$h(x)=\ln(f(x)/g(x))$ としたとき、 $\int_a^b f(x)e^{-h(x)}dx=1$ を示し、イェンセンの不等式 $\int_a^b f(x)e^{-h(x)}dx\geq e^{-\int_a^bf(x)h(x)dx} $ を用いる。ここで出てくる等式は、積分ゆらぎの定理 $\langle e^{-\Sigma}\rangle = 1$ に相当する。
簡単のため、外力は時間変化しないとしましょう。つまり、$P(\Gamma)=P^\dagger(\Gamma)$ とします。 このとき、上記の詳細ゆらぎの定理によれば、順再生 $\Gamma$ と 逆再生 $\Gamma$ の間の確率の比 $P(\Gamma)/P(\Gamma^\dagger)$ が大きいほど、エントロピー生成 $\Sigma(\Gamma)$ が大きくなります。 つまり、それだけ不可逆な過程であるということになります。これは、完全に可逆な過程ではエントロピー生成が消えるためです。 このことを拡大解釈すると「順再生と逆再生の乖離が激しいほど不可逆性が大きい」、つまりエントロピー生成の大きさとクイズの難易度は比例している、とも考えられます。 ここに逆再生クイズを思いついた淵源があります。 当然、ゆらぎの熱力学の理論が適用できるかどうかは場合によるので、このような主張は必ずしも正しくはないことに注意してください。